2020年8月発売/四六判 上製 270頁
定価 本体 2,800円+税
ISBN 978-4-7759-7263-2 C2033
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浜口準之助様
のんびり投資家様(個別株10年)
炎のディーラー様(投資歴25年)
スマイル様(個別株 26年)
ふしみん様(個人投資家)
新ミレニアムの最初の10年、投資家は自らのポートフォリオを増大させ、またそこから資金を引き出す方法を吟味せざるを得なかった。
金融危機後の回復も、この問題を解決する必要性を和らげることはなかった。今世紀に起こったドットコムバブルと住宅バブルは、基本的な知恵や安定性を欠いた新たな「バブル」に取って代わられた。
だが、何十年にもわたり、投資家が見いださなければならない解を提供してくれる株式市場への取り組み方が存在していたのだ。配当成長株投資は市場のボラティリティを回避するのではなく、システマチックかつ機械的に、それを富を蓄積するうえでの敵ではなく、友とするのだ。そして、市場のボラティリティが持つ大きな影響を受けることなく、ポートフォリオから資金を引き出し、マイナスの複利と呼ばれる致命的な影響を回避することを可能とするのである。
「予想に血道を上げる専門家が多い金融界において、デビッド・バーンセンは長期にわたり配当によるインカムを蓄え、再投資していくことが投資で安定的に成功することの鍵であるという真実を理解し、またそれを奉じるアドバイザーとして突出した存在である」
――ローウェル・ミラー(ミラー・ハワード・インベストメンツ共同創業者兼最高投資責任者)
「30年にわたってベビーブーマーが引退を迎えるなか、唯一合理的な投資目的はインカムではない。インカムの増大である。インカムは、少なくとも生活コストと同じように増大しなければならない。さもなければ資金が枯渇することになるからだ。だが、心配ない。主要な株式の配当は、全体としてみれば、われわれが生きている間はCPI(消費者物価指数)が示すインフレ率のおよそ2倍の速度で増大する。それだけではない。そのような増大する配当を使って生きていくかぎり、子孫に残すべき相続財産が増え続けることにもなるのだ。だが、配当成長株の大きな力は常にほどんど理解されることがなく、投資の世界においては最も過小評価されている現象だと言っても過言ではない。だが、もうそんなことはなくなる。すべての世代の投資家はデビッド・バーンセンの明解かつ読みやすい指導書を読めば人生を先取りすることになるであろう」
――ニック・マレー(『シンプル・ウェルス、イネビタブル・ウェルス(Simple Wealth, Inevitable Wealth)』著者)
「資本市場に対するバーンセンの理解が本書を通じて明確に伝わってくる。オルタナティブ投資からフィクストインカム、そして本書の主題となるアセットクラスである有配株に至るまで、あらゆる種類の投資家が理解できるよう記されている。本書を読めば投資家として成長できることであろう」
――アンソニー・スカラムッチ(スカイブリッチ・キャピタル創業者兼CEO)
「その見事なキャリアを通じて、バーンセンは一貫して配当成長株投資の哲学を実践してきた。本書において、バーンセンは整然かつユニークで、思慮に富んだ方法でその投資プロセスに対する新たな価値ある見識を読者に提供している。バーンセンの配当成長株の哲学を理解すれば、読者は投資家としてより完成した存在となるであろう」
――ジョセフ・M・テラノバ(ビルタス・インベストメント・パートナーズ・シニアマネジングディレクター、2008年からCNBC・エンゼンブルのメンバーを務める)
原題:The Case for Dividend Growth by David L. Bahnsen
結論 金融危機後の配当成長株投資のすすめを総括する
付録1――国際市場における配当成長株
付録2――受託者責任の基準からみた配当成長株
謝辞
注釈
アメリカでも日本でも個人の資産形成は、一種のゲームのように資産の絶対額を増やすことがゴールなのではなく、それぞれ何らかの金銭の使途が本来想定されているはずである。人によってそれは、より豊かな生活を送るためであったり、住宅購入や学費に充てるためであったり、あるいはリタイア後の経済的な不安を解消するためであったりするだろうが、いずれにせよ、投資活動の目的は将来のどこかの時点でその資金を使うことにある。
つまり、ほとんどの個人投資家にとって、投資による資産形成の手段は、単に儲かればよいというものではなく、安心して長期的に資産を殖やせること、ならびにそこから必要に応じて投資資金の引き出しができるということが両立されていなくてはならない。したがって、金融機関が投資商品を組成、あるいは販売する際に、単に投資手段の属性だけに焦点を当てるのは、顧客の資金消費の用という観点を著しく欠いていることになる。
この本には、資産形成と投資成果の利用について真剣に考えるべき日本の投資家にとって、とても大切で必要なことが書いてある。筆者の考えに賛同するか否かは読者の判断によるが、少なくとも筆者は自身の経験に基づき論を展開し、ファイナンシャルアドバイザーとしての仕事を通じて顧客にその実践を勧め、結果として自己の主張の責任を負っている。個人投資家にとって、自分の周りに存在する多くの金融機関と、どちらが顧客本位であり誠実で信頼に足る存在なのだろうかよく考えてみる必要があるだろう。
2020年7月
長岡半太郎
本書の幕開きに、この新ミレニアムの最初の一〇年がどのように私が本書で説明した投資哲学に至る発見のプロセスのお膳立てとなったかを説明した。過去一〇年について議論することで本書を締めくくりたいと思う。
一九九九年のドットコムバブル、ハイテクバブルの崩壊から二〇〇八年の金融危機に至る時期が投資の原則を変えてしまったとは思わない。金融危機後の投資は二〇〇八年以前または二〇〇九年以前の大勢とは異なるように見えてしかるべきだと考えている。これは、私が提案していることが現在は正しいが、当時は間違っていたからというのではない。当時も正しかったのではあるが、長い間忘れ去られていたり、誤解されていたからである。
当時も今も、われわれが生きる文化は銘柄選択やマーケットタイミングばかりにこだわっているが、それらには陰に陽にウソが付き物である。つまり、市場の「タイミングを計る」ことに成功するには、チャートを適切に読み解いたり、研究をしたり、達人の導きに従ったり、何らかのお茶の葉を読んだりすることで、望んでいた投資成果を上げ、または避けたいと思っているダウンサイドボラティリティを回避できるという具合だ。
人々は現代の技術を用いてこの文化的現象――それをあおる情報や実行する際に用いられる道具を通じて――を増長させている。私は、技術的進歩やイノベーションを懸念する最後の一人である。実際に、私は利益を求めて配当成長株に資金を投じる日々の投資を、継続する歴史上の進化の一部と考えている。だが、過去二〇年にわたり、オンライントレードやツイッターやインターネットのチャットやレバレッジのかかったETF(上場投資信託)、その数多くの商品や討論の場や伝達手段など、現代のテクノロジー時代において前向きに利用できる副産物のすべてが、銘柄選択やマーケットタイミングという神話の負の側面における道具となっていることをわれわれは目にしてきた。
前述のマーケットタイミングという愚行の次に来るのが、「流行の戦略」を追いかけるという愚行である。流行のファンドであろうが、ファンドマネジャーであろうが、流行の「スタイル」であろうが、バックミラー越しにパフォーマンスを追いかけても、平凡で、ありきたりな結果に終わるのだ。昨日有効であったことが明日はまったく有効でないということが多い。われわれは運と実力を混同している。そして、モメンタムとファンダメンタルズとを混同しているのだ。
何にも増して、マーケットタイミングや銘柄選択に夢中になっているのは、理解はできるがはなはだ嘆かわしい文化的価値体系を反映している。つまり、あぶく銭、容易な利益、手っ取り早い儲け、安易な解決法といったものだ。
銘柄選択やマーケットタイミングのワナに陥らない投資に取り組むには幾つかの方法がある。だが、そのどれもが投資家が定義上、回避することのできない真実から逃れることを許さない。
安易なリターンは曖昧なものにすぎない。永続するお金は時間をかけることで蓄えられるのだ。
そして、リスクフリーレートを上回るプレミアムをもたらす安定的なキャッシュフローを生むことは、ある種のリスクにさらされることである。
人間心理という点からは当てはまらないが、目的達成という見地から最も許容できるリスクは市場の変動リスクであると私は考える。「騰落」のボラティリティは心地良いものではないが、分散されたポートフォリオであれば、だれも吹き飛ばされることはない(「吹き飛ばす」とは学術用語ではないかもしれないが、われわれがビジネスにおいて是が非でも回避しなければならないことである)。
債券に伴うインフレリスクは克服できないものとなりかねない。
過度の集中リスクは致命傷となりかねない。
過剰なレバレッジには事態が反転した場合に支払い不能に陥り、壊滅的なものともなりかねないリスクが付随する。
だが、市場のボラティリティによって命を失うことはないし、それによってむしろ強くなれるのだ。ポートフォリオの弾力性は、質、分散、そしてそのポートフォリオを保有する者の規律や振る舞いによってもたらされるものである。
だが、市場のボラティリティは引き出し段階にある個人のポートフォリオに構造上の影響を与えるのだろうか。あり得ることだが、第5章で取り上げたように、われわれは「タイミングを誤る」リスクとは急速に値を下げる株式のポートフォリオから持続的に引き出しているかどうかだと考えている。適切な余剰資金がその影響の多くを吸収し、またそうすべきだ。だが、マーケットタイミングや銘柄選択の文化の弊害から逃れた投資家が取り組まなければならない大きな「リスク」が市場のボラティリティであるならば、配当成長株投資によって、その「リスク」は引き出しを行う者にとっては完全に許容できるものになると私は考えている。
市場のボラティリティは、グロース志向の蓄財を行う者をイラ立たせることがあるだろうか。いまだポートフォリオに資金を積み増している者(401kに入っている労働者や定期的に投資資金を積み増している稼ぎ手など)以外にも、四〇歳で相続を受けたが六〇歳になるまでその資金に触れるつもりはないといった「一括払い」の投資家は、たとえ引き出し段階にはないとしても、市場の変動におおいに悩まされるかもしれない。必ずしも株価がより安いときに新たな外部資金をポートフォリオに追加することができるとは限らないが、蓄財を行う者が配当成長株投資によって、配当の再投資による新たな投資を実行することは常に可能である。
金融危機後の金融市場はかなり堅調で、市場は大底を打ったものと思われる。利益が底を打ち、再び増大していることが株式のリターンを堅固なものとしている。低金利によって市場のマルチプルが上昇していることも踏まえれば、リスク資産の投資家が不平を言うべきものはほとんどなかった。ヨーロッパ市場は同程度の回復を示しておらず(これはヨーロッパの政治的枠組みに拠るところが大きい)、また日本も何十年にもわたったデフレスパイラルの最終局面にあった。コモディティは上がったり下がったりで、これは新興国市場も同じである。債券市場は歴史的に株式と高い相関関係にあるが、極めて好調(高利回り債や銀行の債券)であった。リスク資産の強気相場はあちこちで見られたが、そのなかでもアメリカの株式市場がもっとも顕著であった。
強気相場は弱気相場と同様に賢明な思考をゆがめる、つまりうまくいかないときに愚かな行動を取り続けることよりも唯一劣っているのは、うまくいっているときにその行動に留まることである。後者はおかしな振る舞いを助長し、そして愚かな判断の結果に対する防御を脆弱にするのだ。
流行のハイテク株が年に七〇%も上昇しようとしているときに、年に七・五%成長する四%の配当利回りという賢明な投資対象に集中し続けることが難しいことは、私も重々承知している。流行や華やかなものを求めているのであれば、本書は不向きであるし、配当成長株からなるポートフォリオもまったく役に立たないであろう。
だが、おそらく、おそらくは人気で華やかなものは評判ほどのことはないだろう。一九九九年のドットコム銘柄は二〇〇〇年に崩壊した。念のため記すが、これはハイテクバブルの犠牲となったペッツ・ドットコムだけの話ではない。シスコやマイクロソフトに劣らぬ重要な企業群が、過去二〇年のほとんど、またはすべてを通じてバブル期の株価を超えられずにいたのである。二〇〇六年のフロリダにおけるコンドミニアム転がしはアメリカ経済の腰を折った金融危機の震源地となった。一九九九年のドットコムバブルや二〇〇六年のコンドミニアム転がしを回避する、目的に基づいた投資ソリューションを求めているならば、キャピタルゲインとインカム、蓄財と資本保全、そしてバリューとグロースとが結び付いた配当成長株こそが最良の戦略であると私は考えている。
一九九〇年代、あまりに多くの投資家が強欲や高揚感、そして現実離れした期待に心を奪われていた。これは、投資家たちがあまりに高すぎる、歴史的に見てもあまりに安直なリターンを求めるようになったというだけではない。投資家が金融市場において資本がどのようにリターンを生み出すのかを理解できなかったということである。①利益は重要ではない、②投資家は金融が安定するまで無限に耐えることができる、③思いつきのビジネスモデルでも世界的な競争が行われる市場で成功することができる――こういった考えが改められるには多大な痛みを被らざるを得なかった。イケイケの一九九〇年代を通じて、配当成長株投資は順調であった。もちろん、「順調」というのは「財政的目的を達成するために必要なリターンを上げる」という意味においてである。
二〇〇〇~二〇〇九年の間に、大暴落、大暴騰、そして再び大暴落が起こった。その間、配当成長株投資の防衛的特徴は比較的順調に投資家に資することになったであろうが、プラスのキャッシュフロー(引き出しを行う者)とより安い株価での再投資(貯蓄者)という攻撃的要素はさらに大きな影響をもたらしたであろう。
過去一〇年間、配当成長株は素晴らしい結果を残した年もあれば、ほかの銘柄群に負けた年もある。それでも、すべてのリスク資産と同様にパフォーマンスは優れたものであった。だが、本書の刊行時における環境は、再びファンダメンタルズが退屈に思えるものとなっている。二ケタのリターンを上げることなど容易で、ホットドット(最近、急成長しているFANGなどのドットコム企業)を追いかけることが合理的なように思える。過去三〇年にわたる展開は、人間そのものに根差した欠点を改善する役には立たなかったのだ。
金融危機以前でも、ファンダメンタルズや基本的な原則、規律ある行動は重要であったが、金融危機によってわれわれの心理に教訓として強力に刷り込まれることになったと私は考えたい。配当成長株投資は、ファンダメンタルズや規律、基礎や行動科学的投資を一身に体現するものである。市場のボラティリティは回避できるなどと偽ることはせず、むしろそれを利点に変えようとするものである。フリーキャッシュフローと利益がどこから来るのか、そこから生まれる配当がどうして持続可能で、増大するのかという基本的なビジネスの現実を認識したものである。大衆の狂気ではなく、企業の業績に焦点を当てるものである。「制度の抜け穴を利用」したり、市場のタイミングを計ったり、他人を出し抜くことができるなどと偽りはしない。それはリスクがあることを承知したシステムである、つまり株価のボラティリティは存在するであろうし、特定の流動株を手にする機会を失うであろう。だが、すべての投資目的のまさに核心を突いたものである。つまり、投資家が現金を回収することだ。
興奮状態のバブルや大混乱となった暴落など、過去二〇~三〇年のうちにはファンダメンタルズや基本的な規律から逸脱するための言い訳がたくさん存在した。だが、その間もずっと、配当成長株投資は将来のインカムを蓄積している者にとっても、現在のインカムを株価の下落やインフレによる減価から守ろうとしている者にとっても、奇跡的と思えるような成長を示してきた。
私が配当成長株投資を「タクティカル」または「タイムリー」という理由から提唱することは今後もないであろう。低金利、高金利、低インフレ、高インフレ、弱気相場、強気相場、リスクオン、リスクオフなど、どんな時期においても配当成長株投資は株式市場のイクスポージャーをとるうえで最も賢明な方法だと私は確信している。
そして、二〇〇三年と二〇一三年の税制改革によってその考えは強化された。そして、キャッシュや債券といった金利代替物の市場が長期にわたって精彩を欠いていることが、配当株投資の魅力を高めていることもたしかである。だが、第3章、第4章、第5章で示した基本的な主張は、そのような戦術的な追い風に頼ったものではない。配当の再投資による複利運用という構造的・数学的現実はいかなる市場環境にも当てはまるのだ。常に増大していくキャッシュフローは、どんなときでも引き出しを行う人のニーズを満たすものである。そして、この結論においてあらためて記す必要があることがあるとすれば、次のとおりだ。配当成長株投資の世界において取り上げられる企業に内在するクオリティーは、リスク管理やバランスシートの強さ、そして株主を重視する経営陣に関心を持つ者たちにとっての優れたポートフォリオに適したものである。
マーケットタイミングや銘柄選択への文化的偏向を超越する投資手法はいくつもあると前述した。投資におけるさまざまな規律やシステムには少なくとも共通する点がある、つまり、存在しないものを提供するとは主張しないということだ。私が本書を記したのは、配当成長株が簡潔さ、税務面での効率性、リスク調整済みの結果、そしてメカニズムの最適化といった点において、それらのシステムのうち最も優れたものであると考えているからだ。私は、配当成長株投資がほかのいかなる投資手法よりも優れていると主張したいわけではない。だが、行動面での賢明さや規律が常に適用されるほかの手法よりも優れた長期的結果をもたらす方法論が存在するという考えは擁護したいと思っている。
別な言い方をさせてもらえるなら、われわれの会社では、投資家たちを銘柄選択やマーケットタイミングというカルトから呼び戻し、大幅な行動変容を伴う配当成長株の世界へといざないたいと思っている。われわれが預かっている顧客の資本について意思決定を行っているかぎりにおいて、配当成長株はわれわれの投資戦略において主要な役割を果たし続けるであろう。私が何年も前に得たひらめきは今も健在である。つまり、投資家が資本を投下するのは、現金という形で回収したいからである。彼らは、一連のお金の流れを望んでいるのかもしれないし、一度により大きな金額を得ることを求めているのかもしれないが、資金を回収するスケジュールは、資金を投じるタイミングが変わるのと同様に、変化するものであろう。だが、現金の回収こそが究極の目標であり、それゆえ、われわれにはそれをできるかぎり最も効率的な方法で行う受託者責任があるのだ。
われわれの資金については、流動性が高く、経営状態に優れ、税務上効率的で、株主に寄り添い、堅調にフリーキャッシュフローを生み出しながら、投資家に対する配当を増大させている企業を通じてそれを行っているのである。それらの企業の株価が変動することはもちろんだが、今も将来も、増大するインカムが投資家が求める現金というリターンであることは間違いなかろう。
この投資手法はわれわれ、そしてわれわれの顧客たちに何年にもわたって配当をもたらしてきたし、また今後何年にもわたってもたらすことであろう。
投資家は不動産やゴールド(金)を念頭に「自分は何かリアルなものを所有したい」と言いたがるものだ。
私は、自由企業に対する所有権がもたらす配当ほど「リアル」なものはないと考えている。自由企業の奇跡とリターンの複利運用という奇跡の組み合わせは現在の金融危機後の投資環境においては強力である。われわれはその組み合わせをこう呼びたいと思う。「配当成長株の奇跡だ」と。